カイロからルクソールへ|ツタンカーメンの墓内部へ!|王家の谷編|エジプト旅行記#8(3日目)

  • カイロからルクソールへ移動(£87/1人)
  • ルクソール空港からホテルへ移動(EGP120)
  • EGP700/1人でルクソールタクシーツアー
  • 王家の谷(Valley of kings)
  • ツタンカーメンの墓(KV62 Tut Ankh Amun)
  • 王墓の壁画について
  • ツタンカーメンについて

📍カイロからルクソールへ移動(£87/1人)
3日目はカイロからルクソールへ移動します。朝の6時台の便だったので3時半頃にはホテルをチェックアウトして空港に向かいます。ホテルチェックインの際に若干の不信感を抱いてからレセプションに対して、「むっ(・`ω・´)」こんな顔の気持ちでいたのですが(詳しくはエジプト旅行記#2へ)、前日の夜に呼び止められて、「国内線だけど早めに着いた方がいいよ、エアラインは?そしたらターミナルはここだね。そしたら3時半には車を呼んでおくから。」と以外にもしっかりと確認してくれました。「お、ありがとうゴザイマス」って感じでした(笑)ということで3時起床、3時半チェックアウトし空港に向かいます。

初のエジプトエア、3列3列の中型機で向かいます。緊急時の酸素マスクについてや、空気で膨らむベストなどのデモンストレーションが一切無かったことがとっても衝撃でした(笑)

短い時間のフライトですがお水と、クラッカーのおやつをいただきました。エジプト旅行は全て自己手配だったので朝の早い便だと飛行機が安くなり、疲労しているのに早起きしなきゃいけないスケジュールが多めになってます。ルクソールに向かう飛行機は一時間程だったかと、大爆睡であっという間に到着です。

📍ルクソール空港からホテルへ移動(EGP120)

カイロに比べるととても小さな地方空港といった大きさです。
ルクソールは中王国末期〜新王国時代(BC1550〜1070年頃)の首都だったところで、ファラオたちが国を最も強くし、アジアやヌビアへ領土を拡大した“黄金期”の中心地でした。

空港からアプリを利用してタクシーを呼びます。外ではたくさんタクシーが待っていて運ちゃんたちは「EGP100!タクシー?」と。アプリ内ではEGP66と表示されたので安いーと思ったのですが実際に運転手に会うと「EGP100でOKか?空港だからね(‘_’)」と。結局100なんかい(`Д´)と思いながら少々ムカつきながらもまあいいかと思いながら乗車。そして空港を出る際に空港の利用料金EGP20も追加で請求されたので空港から宿まで(約20分ほどの距離)合計EGP120でした。


朝の8時ごろだったのでホテルには荷物だけを預けます。カイロに比べ人が全くおらず、とっても静かで車のクラクションが聞こえないことに不思議ささえ感じてしまいました。ホテルの付近には宿泊客狙いのタクシーがたくさんいて、「どこに行くんだ~神殿か~王家の谷か~」などなど勧誘されまくりです。まず自分たちが行きたかったところは王家の谷というたくさんのファラオたちが葬られている場所でした。配車アプリを使ってもなかなか運転手が見つからず、話しかけてきたタクシーのお兄さんに王家の谷まで行きたいことを伝えます。すると向こうから「王家の谷、ハトシェプスト女王葬祭殿、カルナック神殿、あと君たちが行きたいところ全部連れていくツアーにして二人でEGP1400でどう?」と。このお兄さんは今まで出会ったエジプト人たちよりかなり英語が堪能でスマートな印象、我々もいちいちアプリで車を呼ぶのは面倒くさいし、それならこのツアーでいいか。ということでお願いすることにしました。ということでルクソールプライベートタクシーツアーのスタートです。

📍王家の谷 https://maps.app.goo.gl/AfUFpMSqtAaXKHV16

こちらは王家の谷に向かう途中の景色なのですが、この辺一帯が砂漠の一部なのでほとんど何もありません。墓荒らしを防ぐためにあえて人の寄り付かなそうな不毛の地帯に作られたとされています。またこの場所は上は砂や石がありますが、地面が岩でできているため地下に穴を掘ることができました。当時の建築家の自伝の碑文も見つかっており、そこには「我は王の岩窟墓の切り出しを一人で監督した。誰にも見られることなく、また誰にも聞かれることなく」と記されているそうです。

まず駐車場に到着し、ドライバーと連絡先を交換、戻ってくる10分前くらいになったら連絡して再び迎えに来てもらうといった感じです。まずこのお土産のストリートを通ります。おじさんたちは「ワンダラ~ワンダラ~(US$1)」、「どこからきたのー?你好(ニーハオ)」とずっと言ってきます。面倒なのでこちらも笑顔で「你好」で返します(笑)

お土産ストリートを抜けるとビジターセンターにたどり着きました。こちらでチケット購入をします。中には様々な展示がありました。

ヒエログリフの簡易表なんですが、よく見ると日本語で書かれています。

そして日本とエジプトの国旗の描かれた友好関係を示すプレートも発見します。かつて王家の谷では来訪者に対する案内や説明施設(ビジターセンター)がありませんでした。そこでJICAが「王家の谷周辺地区整備計画」を支援し無償資金協力により、ビジターセンターの建設および展示設備を整える支援が行われたそうです。

王家の谷の地図です。64の墓があり、そのうち24が王の墓、その他は王子、王女、王妃、高位神官、未完成のものから動物の墓も見つかっています。ちなみに24の王の墓のうち23は既に盗掘され、中は空っぽだったそうです。トトメス1世からラムセス10世の約380年間分の王の墓があり、入り口があり進んでいくと玄室(棺のある場所)という共通点は多くありますが、1つとして同じデザインは無いそうです。また第18王朝までは盗掘対策として岩肌の奥まった隠れた場所に墓を作り、墓の形状も入り口から玄室まではL字型のような構造になっていますが、第19王朝からは谷の入り口の底の方に墓を作り、入り口から玄室までが直線になります。第19王朝以降は入り口が堂々と作られるようになり、その代わり王家の谷全体を傭兵部族に守らせるようになります。

チケットはここでもやはり外国人価格が適応されています。エジプト人はEGP60に対し我々はEGP750(笑) 今回は入場料で無料の墓を3つまで入ることができます。しかし有名どころはやはりお金がかかります。我々の行きたかった墓はこちらです↓
入場料     EGP750
セティⅠ    EGP2000
ツタンカーメン EGP700
ラムセスⅤ,Ⅵ  EGP220
合計 EGP3,670 でした

ビジターセンターをでて、それぞれの墓に向かいますがバギーの様なものに乗っていきます。

乗らなくても行けないことはないのですが、墓の中心部まではまあまあ距離があるのと、とにかく暑い!!EGP20をまた別の窓口で支払い乗り込みます。5分程で到着しました。

📍ツタンカーメンの墓(KV62 Tut Ankh Amun)https://maps.app.goo.gl/xCBq32mpp56vr8PP7

やってきましたツタンカーメンのお墓です。62番目に発見されたためNo.62となっています。ほぼ最後の方に発掘されたことになります。1922年11月にイギリス人考古学者のハワード・カーターにより発見されました。

Howard Carter (1874-1939) ハワード・カーター

カーターはイギリス人の大富豪、カーナヴォン卿をスポンサーにして、1916年から王家の墓の発掘作業を行い、1922年の契約を打ち切られる予定だった年に、ツタンカーメンの墓を発見します。この墓は谷の中心部にあったため、土砂で入り口が埋もれていました。

George Herbert, 5th earl of Carnarvon(1866-1923) カーナヴォン卿

先にも言ったように24の王墓のうち23は盗掘にあっており、財宝・ミイラは全て取られ内部は空っぽでした。ツタンカーメン王の墓が見つかるまでは未盗掘の墓は発見されていなかったそうです。カーターは、入り口を進み階段を降り、未開封の封印壁を発見します。しかし開けるにはスポンサーのカーナヴォン卿を待たねばならず、3日ほど彼の到着を待ち、ようやく穴を開けることができたそうです。カーナヴォン卿が到着し、カーターが封印壁に穴を開けて覗き込むとしばらく黙り、カーナヴォン卿が「何か見えるかね。」と尋ねたところ「はい、素晴らしいものが。」とカーターが答えたという記述が残っているそうです。

ということで私たちもいざ突入です。まず階段を下ります。

約6.4m×3.7mの小さな部屋の右側に石棺と壁画が!!( ゚Д゚)なんと壁画の着色などは約3000年前の当時のままです。とっても綺麗に残されていてテンション爆上がりしました!!しかしここは人気の場所なのでかなり狭い空間に人がたっくさんです。壁画を見るにも頑張って前の方に行かないと見ることができないくらい人がぎゅうぎゅうでした。王の墓は王が即位すると建設が始まるため、在位期間が長ければ長いほど大きく立派な墓になります。ツタンカーメンは約9年間だけだったのでコンパクトな墓になっています。

部屋の左側にはツタンカーメンのミイラのレプリカの展示があります。レプリカですがかなりリアルに再現されていました。発見された当時、ミイラの重さは10kg、身長は167㎝で骨は縮むことはないのでツタンカーメンは約167㎝だったと推定されています。こちらも3000年間手つかずでした。約1000年前、ヨーロッパではミイラの粉末を飲むと不老不死になれると信じられていたため、かなり高値で取引されていたそうです。恐らく王家の墓のミイラたちは盗まれた後すりつぶされてしまったのでしょう。

これはカーターたちによって発見された当時の墓の内部の様子です。観光客が行けるスペースは1の階段、5の石棺と壁画のスペース、そして2の長方形のスペースです。
カーターは階段を降り、部屋が広がる手前の壁の穴からこれらの金銀の遺物を発見したことになります。ツタンカーメンがあの世に行ってからも物を取に帰って来れるようにとベッド、椅子、文房具や様々な日用品、約5,000点もの遺物が発見されています。現在それらは大エジプト博物館に展示されています(最終日に大エジプト博物館に行ったのでまた後日)。
実は未盗掘と言っても、2回盗掘にあっていますが、いずれも泥棒は捕まえられているそうです。封印壁に穴が開けられ、それが塞がれた跡と、布にくるまれた盗もうとした指輪が落ちていたんだとか。しかし唯一ほぼ完全な状態の墓だったのがツタンカーメンの墓ということになります。

📍壁画について

右側の壁画

横たわっているのはツタンカーメン王のミイラ、そしてそれを引く古代の喪章である白いハチマキをした人たち。

正面の壁画

右から二番目の白い帽子をかぶっているのはオシリス神(冥界の王)になったツタンカーメン、右端の人は宰相だったアイ(ツタンカーメンの次の王)がセム神官の衣装に身を包み、口明け(死者が来世で再び「食べる」「飲む」「話す」といった活動を可能にするため)の儀式を行っている様子。
一番左もツタンカーメン、女性がヌト神(天空の女神)がツタンカーメンの鼻から命を与える。と書かれている。

左側の壁画

冥界は12の世界(時間)に分かれており、この壁は第一の世界。冥界へ入る太陽神を迎えるヒヒたちが描かれている様子だとされている。(ヒヒの太陽を見て騒ぐ習性から)

📍ツタンカーメンとその時代について(メモ)
在位:BC1344~1325年頃、9歳で即位し18歳頃死亡。
エジプト暗黒期と呼ばれる時代の王のためほぼ無名。王よりも神官たちが力を持っていたとされる大混乱期のためエジプトで誰が一番偉かったのかがよく分からない時期であり、セティ1世が作った王名表の中にも名前がない。

ツタンカーメンを表すカルトゥーシュ 
左:誕生名:ツタンカーメン、右:即位名:ネブケペルウラー

父:アメンホテプ4世(アクエンアテン)

アメンホテプ4世(アクエンアテン)

当時は王よりもカルナック神殿に奉られていた太陽神(アメン=ラー)と、そこに遣える神官たちが人気で力をもっていたため、多神教から一神教にする宗教改革を始める。アテンだけが神だと宣言、そして自らの名前をアクエンアテン(アテン遣える者)とし、アテン以外を奉っている神殿などを破壊、神官たちも辞めさせた。しかし国民と神官から猛反発されアテン信仰は根付かず終わってしまう。

ツタンカーメンは父の意志を継がずに即位後はエジプトの多神教を復活させ、自らの名前を
「Tut-ankh-aten(ツタンカーテン)」:アテンの生きた似姿から、
「Tut-ankh-amun(ツタンカーメン)」:アメンの生きた似姿に変更する。

アメンホテプ4世の王妃はネフェルティティですが、ツタンカーメンはアメンホテプ4世とその姉妹との息子で、近親婚から生まれた子供になります。そのため遺伝的要因で内反足や骨壊死などの先天性の身体疾患が多くあったとされており、最終的な死因は骨折による感染症と、マラリアによる合併症であると推定されています。

体が弱いのに9,10歳で王に即位し、父親が行った宗教改革に振り回され、若くして亡くなったにも関わらず無名の王と称されるのははなんとも悲劇です。しかしほぼ未盗掘でミイラとさまざまな遺物が見つかったことによりエジプトの古代研究にかなり貢献できているのではないのでしょうか。ツタンカーメンの墓で見つかった遺物、ミイラの入っていた棺、黄金のマスク、厨子なども実際に見てきたのですが、またそれについては別の記事で残していこうと思います。一つの墓の話でかなり長くなってしまいましたが、まだまだ続きます。

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